佛向寺の歴史

佛向寺は弘安元年(一二八七)年に天童城主源頼泰が、一向上人に帰依した父頼直の命により成生庄の中心部に位置する(現 天童市成生大字大清水字二階堂)そばに
建立された。開基は源頼直。事実上の開山は一向上人の最も信頼された弟子の行連だったと思われる。

永和元年(一三七五)里見氏が舞鶴山の天童城に入り、天童氏を名乗った頃、舞鶴山麓の現在地(現 天童市小路)に移転された。

戦国時代には僧兵を有し、天童古城である舞鶴山にあった天童城の西の守りだったという。

天正一二年(一五八四)に、天童頼久と山形城主最上義光との合戦では、天童城落城の際に堂宇を焼失したが、後に再建された。

江戸期には時宗に編入され時宗一向派となったが、番場蓮華寺との本山争いの結果、番場蓮華寺が大本山、天童佛向寺が中本山であった。

文化年間(一八○四ー一八一八)頃火災で堂宇を焼失したが、文政八年(一八二五)本堂再建、以後着々と復興された。

昭和十七年(一九四二)年に番場蓮華寺以下五十七ヶ寺の一つとして浄土宗に帰入した。番場蓮華寺が浄土宗本山となった。


 開山一向上人について

一向上人は築後国(福岡県)の地方豪族であった草野永泰の第二子として歴仁二年(一二三九)正月、筑後国竹野庄西好田の地に生まれる。

この地は久留米市ではなく、久留米市の隣の田主丸町であった。草野庄は久留米市、竹野庄は田主丸町である。ただし、平成一七年(二○○五)に田主丸町は
久留米市に合併している。

永泰の兄永平は浄土宗の第二祖である聖光上人に帰依し、建久三年(一一九二)造営なったと言われる浄土宗大本山久留米善導寺を建立を発願した開基大檀那と善導寺に伝承されている。

その後、寛元三年(一二四五)に播磨国の書写山円教寺に入り、天台教学を修めることとなり、建長五年(一二五三)に剃髪受戒して、名を俊聖と改めて、それ以来この山で、天台の教えに基づき精進した。

しかし、生死からの解脱の困難さを悟り、翌年夏には、山を下りて、南都に赴いた。南都でも諸所の師を尋ねたが、解脱の法は見出せなかった。そんな時期に、
安楽集の文により、浄土門に帰入し、浄土宗第三祖の良忠上人の弟子となる。そこで約十五年浄土の行学を修められた。

そして、文化十年(一二七三)から諸国を遊行し、踊躍念佛を広め、諸国に道場を作った。弘安一○年(一二七八)十一月十八日 番場連華寺にて立ちながら亡くなったと伝えられている。



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